ダイヤモンドプリンセスが横浜港に入港した2月上旬以降、日々、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化している状況です。
このため、多くの人が不安に陥り、外出できないストレスも加わって、うつ症状を示す人も少なくないようです。
とはいえ、過去の歴史を振り返っても、人類がこの危機を必ず乗り越えていくことは間違いありません。
むしろ、わたし自身は今回の感染症により、人類が従来の価値観を反省し見直すことで、何年か後に、これまで考えられなかったような明るい未来を実現できる可能性があると思っています。
ですので、世界の終わりとは決して思っていないし、まったく悲観はしていません。
むしろ、明るい未来に近づくためにこそ、不安にきちんと向き合い、目の前の状況に対して万全の手を打てるように力を養うという観点で、記事をまとめました。
1. 不安なのが当然
まずするべきは、「先行きが見えない状況のなかで不安を感じるのは当然」だと認めましょうということです。
不安に駆り立てる要素はいくつもありますが、一つには、いつ収束するかまったく見通しが立たず、長期化が避けられない可能性が大きいことがあります。
現在の感染拡大の波が収まっても、第2波、第3波が来年以降も繰り返し襲い、ワクチンの完成時期にもよりますが、完全な終息は2年以上先という予測もあります。
現在のウイルスは幸いなことに致死性はさほどではないですが、今後どのように変異するかも予断を許しません。
次に、観光、飲食など特定業種が壊滅的打撃を受けるのは間違いないほか、多くの産業が長期にわたる外出制限で大きく影響を受け、国全体の経済がどこまで落ち込むか見当がつきません。
それどころか、世界の経済システム、通貨制度そのものが破綻するという懸念さえ、誰も否定できない状況です。
つまり、何が起きても、どう転んでも不思議ではありません。
そんななかで、個人として、どのように仕事をし、生きていくのか。
国の支援が当てにできないことは多くの人が感じているとおりです。
予測不能であり、対処可能かどうかも、誰にもわからないのです。
これだけ先が見えないのだから、不安や恐れの気持ちが出るのはむしろ当然です。
そんななかで、空元気を出すことや無理にポジティブになるのは危険です。
抑圧した感情はなくなるわけではなく、予測不能、制御不能な形で噴出するリスクが高まります。
不安は当然あるもの、あっていいものと捉えて、対処するのが健全な姿ではないでしょうか。
2. 必ず道は開ける
その上で、「必ず道は開ける」と信じましょう。
著名な経営コンサルタントの福島正伸さんが、こんなことを言っています。
「よく「あらゆる手段を尽くして」と言うけれど、人間はあらゆる手段を尽くすことはできない。なぜならあらゆる手段を尽くす前に必ずうまくいってしまうから」と。
つまり、「あきらめさえしなければ」、あらゆる手段を模索するうちに、どこかの時点で間違いなくなんとかなるのです。
数多くの現場をふみ、実際の経営者にアドバイスしてきた方の言葉だけに、説得力がありました。
戦争で生産手段が破壊されたり、住む家が焼けてなくなったりしたわけではありません。
第二次大戦後の焼け跡から復興したことを思えば、はるかに恵まれています。
すると、問題はどうすれば「あきらめないで」挑み続けられるかということになります。
3. あきらめない方法
あきらめない方法を考える前に、どうして人間はあきらめるのでしょうか。
それは、頭で考えて無理だと決めつけてしまうからです。
前項のように必ず道が開けるのが真実としたら、無理という判断は明らかに間違った思い込みです。
ですが、その思い込みが曲者で、極端な場合は自殺という形で自分を滅ぼします。
片や、人間のように考えることができない動物はどうでしょう。
動物は生命力が尽きる最後の瞬間まで生きようとし続けます。
でも、知恵がないからとりうる行動が限られ、そのために命を落とすこともあります。
同じように、人間が思考を捨てて闇雲に行動しても、うまくいくことは少ないでしょう。
そうではなく、気力の方をもっと充実させて、あきらめずに考え行動できるようにすればよいのです。
気力とは生きようとする力、すなわち生命力です。
あきらめないであらゆる手段を尽くすためには、生命力を高めればよいのです。
4. 生命力の正体とは
では、生命力とはなんでしょう。
実は、現代科学では解き明かせていません。
生命を正確に定義できていないことから明らかです。
ところが、日本に数万年前の上古代に存在したカタカムナ文明では、少なくとも生命力の正体を解き明かしていました。
カタカムナの人々は、生命力とは宇宙の内外に遍く存在するカムのエネルギーの現れと考えていました。
カムは、老荘思想のタオ(道)に近いとされています。
天然自然の裏側に存在してすべてを生み出す元となるものです。
その原理とは、すべてのものに対して「よりよくあれ」という働きかけです。
生命であれば、生命を「よりよく生かす」働きとして現れます。
もしこうした働きがなければ、宇宙も生命もとっくに秩序を失い、四分五裂してカオスになっているはずです。
生命力とは、宇宙の根源であるカムの力のあらわれのことだったのです。
そして、カタカムナ人は、脳に生命力が豊富にある状態で思考すると、ヒラメキという最高のパフォーマンスが可能になることも解き明かしていました。
「考(かんが)える」という日本語は、カムガヘル、すなわち、「カム」に「カヘル」、源であるカムに還ってアイデアを得ることに由来した言葉だそうです。
これは、現代人がやりがちな、生命力(実感)の伴わない、頭だけの思考とはまったく別物であることに注意しなければなりません。
頭の良し悪しではありません。自分中心、人間中心に、他の人や生物を踏み付けにするような思考はすべて後者の頭だけの思考(妄想)です。
こう考えると、生命力を満たしていれば必ず道が開けるのは当然ですね。
なにしろ宇宙創造の力の一端を借りることができるのですから。
5. 生命力を高める方法
生命力が実はたいへんなものとわかったところで(その素晴らしさはもちろんなのですが)、ではどうすれば生命力を高められるのでしょうか。
一般に、生命力は心身の状態を整えてよりよくすることで高まると考えられています。
良質の睡眠、バランスの取れた栄養、適度な運動、良い人間関係、教養、人格の高い人に接するなどです。
カタカムナの人は、上のすべてを包含する本質的な手段を解き明かしていました。
それが、<ミ>を入れて生きることです。
<ミ>を入れることで、カムから脳に生命力が流れ込むのです(カムウツシ)。
「ミ」とは、カムの力(エネルギー)の一つの形態で、ミが集まると、電気、磁気など現代科学で計測可能な粒子、つまり目に見える世界のエネルギーになります。
「<ミ>を入れる」が何を意味するかですが、日本語の「身を入れる」とほぼ同じです。
(対象を好ましく思って)ていねいに、ゆっくり、無心で、落ち着いて、心を込めて行うといった意味です。
大切なのは、きちんと感じることです。
ですから、およそ人間の行為は、すべて<ミ>を入れてすることができます。
呼吸でも、食事でも、歩くこと、考えること、ぼーっとすること、何でもです。
ただし、考えることは、実感の伴わない頭だけの思考になりやすく、最初は避けた方がよいでしょう。
反対に、手先を使った単純作業は、<ミ>を入れて行いやすい行動です。
掃除(拭き掃除、ガラス磨き、鍋磨き)、料理、細工ものなどがそれに当たります。
考えが煮詰まり、風呂やトイレでふと気を緩めた瞬間に、いいアイデアを思いつく経験を誰でもしていると思います。
悩んで自分を傷つけるぐらいなら、ぼーっとして考えを手放し、力を抜いて体を感じてみましょう。
普段意識していなかった、拍動、脈動が全身で感じられるはずです。
このように、自分の中に宿る生命力に意識を合わせて感じていると、生命力を高めることができるのです。
6. 生命力を確かめるには
先に述べたとおり、生命力の具体的な形態である<ミ>は現代科学では計測できません。
しかし、だからといって存在しないわけではなく、あるもので感受することができます。
それは人の感覚です。人間こそが現代科学を凌ぐ精密計測器なのです。
カタカムナの<ミ>の力を使った合(あい)気を独自に研究している方がいます。
この氣の力を使うと、力づくで向かってくる相手をいとも簡単に崩したり、渾身の力で抑えつけようとする相手を片手で振り回したりできます。
わたしも実際に体験してみましたが、筋力ではない別の力が働いているのが明らかでした。
その氣の力の発動の鍵となるのが、やさしい気持ち、リラックス、鼠蹊部をゆるめかかと重心の後傾姿勢、ゆっくり、ていねいに動かすことなのです。
戦いや攻撃とは真逆であることがわかりますね。生命を生かす力ですから当然です。
赤ん坊が寝入った時、重くなるのも<ミ>が入るからだそうです。秤で測る質量にはあらわれませんが、人間は感じ取れるのです。
あと、わたしはよく登山をしますが、足や体の感覚、苦しさなども感じながらゆっくりていねいに登ると、不思議なほど疲れずにしかも結果として早いペースで歩き続けることができます。
登山に関しては先に体験があり、後から「ミを入れる」ことで生まれる効果を知って合点が行きました。
7. 生命力は精神論や気のせいでは片づけられない
カムの生命力の話を聞いて、どこかで聞いた気がすると思った人がいるかもしれません。
それはそうでしょう。
日本人は「身を入れる」ことで、昔からこの力を使ってきたのですから。
職人の親方は弟子に、「お前の仕事は形こそ綺麗だが、心が籠もっていない。もっと身を入れて仕事をしろ」などと言う言葉で、指導しました。
茶道や華道も、一定の形、作法、動作を通じて、感じる力を養うのに役立っていたはずです。
ですから、一般の人たちも、その違いを自覚していたと思います。
また、スピリチュアルでいう「今ここ」にいる、今ここの景色を見て、音を聞いて、意識を広げて感じることとも同じことです。
さらには、マインドフルネスの定義「今この瞬間の体験に心を集中させ、評価・判断をしないでありのままを観察すること」と言ってもよいでしょう。
そういう意味では、現代に生きる私たちも、<ミ>の生命力を意識する機会は生きているなかでそれなりにあるわけです。
しかし悲しいかな、私たちは多かれ少なかれ科学絶対主義に侵されているので、この何となく感じることを軽視してしまいがちです。
たしかに感じるけど、気のせいかもしれない、というように。
それに対して、カタカムナ人は、「潜象(目に見えない微小世界の事象)の物理」として、極微世界で起きる実際の出来事として解明し言語化してくれていたのです。
「こうすれば、こうなる」という法則、公式のようなものです。
ですから、私たちも、カタカムナの知恵を知ることで、自分の感覚で追体験した上で、確信を持って生命力を活用することが可能になるわけです。
本当にありがたいことですね。
8.まとめ
今はパンデミックへの危惧から、不安がとても高まっている時期です。
しかし、考えてみれば、生きているかぎりいつだって先行きは不透明ですし、不安は出てきます。
と同時に、振り返ってみれば、どんなに苦しい時期もなんとか乗り越えて生きてこられたはずです。
生命力は、宇宙の根源からくる「よりよく生きよう」とする力でした。
この力を活用することで、私たちは絶対安心の中でよりよく生きていくことができるのです。
みんなで明るい未来を引き寄せたいですね。
以上