こんにちは。いちごんです。
これは、私がお百度参りをした体験談です。
お百度参りとは、心願を成就させるために、神社に100回参拝することです。
1日に100回をまとめて参拝する方法、連続100日かけて参拝する方法があります。
100日かけて参拝するのは、1日でも空いてしまったら最初の1日からまたやり直ししなければならないみたいです。
私は、連続100日かけて参拝する方法を取りました。
2020年5月20日~2020年8月27日にかけてやりました。
無事に終わりましたので、その体験談を書こうと思います。
お百度参りで何をお願いするのか?
Googleで検索してみたところ、自分のためではなく、他人のためにお願いすることが多いみたいです。
病気治癒のお願いが一般的のようでした。
自分のものだと、試験合格とか就職祈願とか。
私は死ぬまでに達成したいことをお願いしました。
そこに向かわないと、死ぬ前に後悔するんじゃないかという想いが出たからです。
自分の力だけではどうにもならないと思ってたのもあります。
そのお願いは、自分のためにもなるし、他人や日本のためにもなるものでした。
お百度参りで選んだ神社
近所の神社をいくつかピックアップして、どんな神様を祭っているのかとかネットで何度か調べてみました。
そのなかの1つで、1回も行ったことない神社だったけど、天照大御神を祭っている神社があり、そこが私のお願いするのに一番ふさわしいと思いました。
往復歩いて参拝する時間を全部込みで、約30分くらいなのでちょうど良いと思いました。
参拝中にあった出来事
心地良い風が吹いたりした
じっさいにはあんまり風は吹いてないんだけど、吹いているように感じました。とくに心のなかで。
誰もいないのに神社の周りに人の気配が何度かしました。
男性ぽい感じがして、神主なのかなぁと思ったけど、周りを見渡してもいつも誰もいませんでした。
神様の声なのか、自分自身の声なのかよく分からなかった
神社の前にいると、ふとしたときにメッセージが降りてきたりします。
天照大御神のほうは、たまに頭の中に何か入ってくるような感じがあったり、人の気配が回りにしたりはあったのですが、あんまり直接話しかけてくる感じは少なかったです。
倉稲魂命(お稲荷さん)という神様が、お世話焼きのおっちゃんみたいな感じで話しかけてくる声がある気がしました。
ときどき、少し怒っている感じはありました。
神社からの声「目的を達成するための行動を何もしてない。」
私「行動したいけど経済的な基盤が整っていないからできないのです。」
神社からの声「そんなのは何も関係ない。やるかやらないかだけ。」
私には言い訳をして、行動しない傾向性がある。
経済的な基盤が整っても、体調が良くなっても別の言い訳をする可能性はあるなぁと思いました。
自分の状況がどんなに悪くってもバカになって、どんなに怖くても行動することが良かったかもと思います。
めずらしい動物に出会った
境内社の鳥居のド真ん中に座ってた大きいカエルを見ました。
15センチくらいあって、都会にもこんなに大きいカエルがいるんだなぁとビックリしました。
最初、置物かとおもったけど、ちゃんと息をしてました。
堂々と鳥居の真ん中にいるので、まるで神様みたいだなぁ…と思って面白かったです。
猫とヘビ
ある日、神社に行くと入り口の鳥居の左右に猫が1匹づつ座っていて、まるで狛犬みたいだなぁと思いました。
私をお出迎えしているみたいでビックリしました。
しかも左の猫の後ろには小さいヘビがいました。
ずっと見てたら、猫2匹がそのヘビにちょっかいだしてました。
ヘビは小さいから、大きい猫2匹には負けるだろうなと思いました。
どうなるか見たかったけど、早く参拝して仕事に行かないといけなかったので、本殿に向かいました。
そしたら、本殿の前の広場の真ん中に寝そべっている猫がいて、ビックリしました。
毎回猫をみるぐらい猫が多くたむろしている神社でしたが、見るたび面白い位置にいて(お賽銭箱の上とか)色々楽しめて良かったです。
参拝することで見えてきた自分の気持ち
本当にその目的(願い)を叶えたいと思っているのか?
他人のためじゃなくて、自分のエゴなんじゃないか。
べつに自分がやらなくても、他人を含めて達成すればそれでいいんじゃないか。
100%無理なんじゃないか。
100%無理は途中で和らいで99%になったりもしたけど、また100%になったりしました。
そういう、自分に対して自問自答することは、とても有意義な時間が持てたと思います。
自分の利己的なお願いもしてしまった
100回の途中で、私は自分の状況があまりにも苦しく感じたため、自分だけのお願いもしてしまいました。
「咳が治らなくて、息が苦しいから良くなりたい。」
「仕事が見つからない。お金がなくなってしまう。経済的な基盤を整えたい。」
私は結局はなんて弱い人間だなぁと感じながら、お願いをしました。
そんな利己的なお願いは、数日中に叶いました。
短期間だけど仕事が見つかったり、合う薬がなかったけど、見つかったり。
根本的な解決ではないが、応急処置的な部分はあったのかと思います。
無いものを有るものとする苦しみ
私にはその目的を達成するための能力がない。ないけれど、在ることにしないと先に進めない。
有ることにしないと、この世で存在しつづけることができないと思いました。
能力が無いのに、有ることにするというのがとても苦しくて、なんでこういう考えをしなくてはいけないのかと思いました。
最終的に辿り着いた答えは、能力がないのではなく、有るけど経験が足りないんだという考え方にすることにしたのです。
自分1人だけでもオールオッケー
世界中の全員に願いが叶うのが無理だと言われても、私1人だけが「やる」「できる」と決めた時点で、それだけで十分だと思った。
現在の自分の状態とか、能力とかそういうのはどうでもいい。
自分が「それをやりたい」と思うか思わないか。それがすべてだと思いました。
お百度参りを終えてみての感想
おみくじは良いことしか書いてなかった
お百度参りの100日目の帰りに、何かメッセージをくださいとおみくじを引いたら、「大吉」で、順風満帆!のような、とにかく良いことしか書いてませんでした。
健康状態も経済状態もボロボロなのに。泣きながら笑っちゃうような内容だなぁと感じました。
100日間継続したことによって自己肯定感が上がった感じがした
100日間も連続で通うのは大変かもと思ったけど、けっこうラクに達成できました。
あと200日ぐらいは軽くいけそうだと思ったくらいです。
あっとゆうまの100日でした。
お百度参りに使った1日30分の時間を今後、願いを叶えるために使う時間にいいかもしれないと思いました。
もっと神様の声を聞いてもいいと思った
神社に行ったときに聞こえる声は、自分の声なのか神様の声なのか区別がつかない。
もっと聞いても良かった。それが自分の声だとしても。でも、何か悪い存在の声だったらどうしようというのがありました。
自分自身の声だとしても、もっと聞いてもいいという気持ちかもしれないなぁと思いました。
わりと神社に行くようになった
それまでの私は神社にほとんどいかないタイプでした。
子どもの頃は、1年に1回いってましたが、大人になると数年に1回とかになってました。
あんまり興味がなかったし、行く意味が分からなかったし、人に行くと良いと言われたからいいのかもしれないと、形だけになってました。
どっちかというと、お参りするときに人がいたら、その人目を気にしてしまって集中できませんでした。
それが、お百度参りを達成したあとは、神社に前より行くようになったし、神社にいる人の目を気にしなくなってました。
気のせいかもしれないが、神社に呼ばれているような感じがして、行ったら何らかの気づきがありました。
神社に呼ばれているわけでなく、私自身が単純に行きたかったのかもしれません。
神社に行った後に思いついたことを行動すると、あんまりがんばらなくても少ない労力で願いが叶う方向にいったりしました。
たとえそれが、願いとは直接関係ない行動だったとしても、エネルギーが動いたあとで現実化する感じです。
でもそれは、やる前にすごく怖かったり、不安だったりする内容が多いです。
だけど、そもそも自分の抵抗が強いものは、メッセージのようなものが降りても行動すらできなくて、現実化しない傾向性があると思いました。
あまり、実行した数が足りないので、たいして合ってないことも多いかもしれません。
日本の神様や古事記に興味を持つようになった
お百度参りのあとは、日本の神様のことを知りたくなったり、古事記に興味が出て本を注文したりしました。
なぜだかよく分かりませんが、自分を野放しにすると、そういう方向に行ってしまうと思いました。
現実的ではないと感じつつ、「古事記は読んでおいたほうがいい。」と私の心の声が言うのです。
現代の日本人の多くは、現実を見ているようで幻想を見ているような気がしたのです。
今まで知らない現実が、古事記にあるような気がしました。私のたんなる思い込みかもしれません。
しかし、その方向だけに行かぬよう、自分の心を野放しにせず、しっかりと繋ぎ止めなくてはと思いました。
そして、お百度参りでお願いしたこと(達成をしたいこと)に少しづつでいいから進む行動を起こしていきたいと思いました。