コンビニで両手にパンを取る。
右手には焼きチョコのパン。左手にはクリームの入ったパン。
自分の中で「どっちが好きか?」を基準に選ぼうと思うが答えがでない。
考えれば考えるほどに・・・
そもそも、チョコのパンもクリームのパンもあまり好きではないことに気づく。
もっと言えば、本当にパンが必要なのか?ということになってしまう。
今日は仕事が早く終わり、まだ明るい内に家の最寄り駅に着いた。
なんとなく小腹が減ったように感じたので、いつも行っている駅近くのコンビニに寄る。
コンビニで食べたいものを考えると、いつも結果的に「パン」に行きついてしまう。自分の中で無難な選択という感じ。
一応、コンビニの中をうろうろしてみるものの、結局はパンのコーナーに足が向く。やっぱりパンが好きなのだろうか?
パンの棚を見る。
なるべく離れた視点でパンコーナーの棚全体を見渡してみる。ランチは食べているので、総菜系のパンは食べたくない。となると、あとは甘い系のパンか?そんなに甘くない系のパンか?
なんだか、身体は疲れている感じがするので気持ちは甘い系のパンに傾く。
手に取ったのは焼きチョコのパンとクリームの入ったパン。
両手にとって考える。
「どっちが好きかな?」今日は好きなものを選択するということを決めて1日を過ごしている。
最寄り駅からの帰り道
駅から自宅までは様々な選択肢がある。
駅からタクシーに乗る、バスに乗る、車で迎えに来てもらう、歩いて帰る。
一番お金がかかるのはタクシーに乗ること。いつものルートで家に帰るのにタクシーに乗るという行為自体に贅沢さを感じて、一人ではタクシーに乗るという選択ができない。
最もコストパフォーマンスが良いのはバスに乗ること。駅から自宅までは坂道が続くので公共交通機関であるバスは安価で効率が良い。ただ、通勤や帰宅の時間帯はバスが混みあって決して快適な旅路とは言えない。何よりバスが来る時間までバス停に並んで「待つ」という行為が苦痛に感じる。
家族に連絡をして車で迎えに来てもらう。ということもできる。が、既に駅についている段階で連絡をして来てもらうのは時間のロスが大きいように感じる。『今から迎えに来て』と連絡して頼むのも、嫌がられそうでお願いしたい気持ちにはなれない。
いつもの選択は「歩いて帰る」である。一番、自分にとって自由な感じがする。歩いて帰る時間はいろんなモノやコトから解放されて、気分が良い。ただ、この暑さは堪える。帰路の半分くらいは問題ないが、後半になると坂道も厳しくなってだんだんと歩いていることが嫌になってくる。
さて、今日は駅からどうやって帰ろうか。
人は生きていくうえで様々な選択に会う
人生を決める大きな選択や決断もあるが、小さな選択の積み上げが人生であるとも言える。
定期を使って会社から最寄りの駅まで帰ってくる。駅から自宅までのルートは自分自身の選択である。
今日は歩いて帰ることにする。車が多い道か、人通りが少ない裏道か。選ばなければならない。
歩いているとお腹が減ってくる、喉が渇く。
いつものルートで帰ると途中には4件のコンビニがある。それぞれのコンビニが近くなり、前を通るたびに考える「何か買って食べるか?家まで我慢するか?」それとも、ただ通り道にコンビニがあるから何かを買いたいという衝動に駆られているだけなのか?
駅から約30分の道のりを歩く。
ただ歩くのか?スマホでポケモンGoをやりながら歩くのか?仕事の電話をしながら歩くのか?
駅から自宅まで帰る、それだけで様々な選択があることに気づく。
問題はそれぞれをどのように選択しているのか?ということである。
自宅に帰る
住宅ローンを使って購入したこの家は本当に自分が住みたい家なのだろうか?
家では妻が待っている。この人は自分が本当に好きな人なのだろうか?
お風呂に入る。いま、本当にお風呂に入りたいタイミングなのだろうか?
夕食を作る。これは自分が食べたいと思っている食事なのだろうか?
ブログを書く。自分が本当に書きたいことなのだろうか?
寝る。これから寝ることが本当に必要なのだろうか?
自宅に帰ると様々な選択があり、既に自分が選択した結果がある。
どれにも答えはない。
必要なのは自分で選ぶということである。
さらに言うなら「好き」を基準にして選ぶ人生を送りたいと思う。
ところが、今までの選択を振り返ると「好き」を基準にした選択をしていないことに気づく。
では、どのようにして選択をしてきたのか?
なんとなく選択している
答えは単純で「なんとなく」ということになる。
要はなにも考えずに選んでいることが多い。
人生に大きな影響を与えそうな選択にしてもそうだ。
自宅。いま住んでいる中古のマンションは好きだから買ったのではない。なんとなく予算と合って、住みやすそうで、リフォームしたら面白そうだから買った。ということを思い出す。
購入時からリフォーム工事期間中にあったワクワクするような思いは、住み始めると日常の空間へと変わり、当たり前の存在になってしまう。
妻との関係はどうだろうか?
「好き」という思いが募って「結婚」という選択をしたことになるが、結婚から10年経っても「好き」という思いから一緒にいるかといえばそうでもない。
もちろん「好き」という思いは変わらずあるが、それ以外の要素も多くある。
例えば、心地よい、リラックスできる、学びがある。といった要素がある。
人生で出会う数々の選択を「好き」を基準にして選ぼうと思うと、「嫌いじゃないけど、好きでもない」という要素は簡単に見つかる。
ところが、「好き」な要素はなかなか見つからない。いつの間にか自分の人生の中から「好き」が消え去っているたのではないだろうか。
「好きなことを選択する」課題
「覚醒塾」に参加して最初に与えられる課題は「好きなことを選択する」でした。
覚醒塾に参加して、実際に課題をやってみた私が思ったままの一人つぶやきを書いてみました。
「選択」に意識を向けることで、毎日の生活の中には数々の選択があることに気づきます。その選択を「好き」という価値判断のもとに選択をするのが最初の課題です。
実際にやってみて気づいたことは、
「嫌いじゃないけど、好きでもない」という要素は簡単に見つかるものの「好き」という価値基準を自分の中には持てていないことに気づかされました。
冒頭に出てきたコンビニのパン
チョコのパンとクリームの入ったパン。最終的にどちらが好きかを選択することになりましたが、普段であれば「なんとなくクリームの入ったパンとホットコーヒー。」というように、ほとんど何も考えることなく選んでいます。
ところが、「好きなことを選択する」ということを取り入れると少し、考えるようになります。
わたしはこの「選択時に考える」という行為が、自分の意識領域を広げる上では非常に重要なのではないかと考えます。
最終的に2つに絞られたパンを選ぶという選択ですが、パンを選ぶ際にはこんなことを考えました。
- チョコとクリームどちらのパンが好きか?
- 本当にパンが必要なのか?
- 食べずに我慢をして得られるものがあるのか?
- やせ我慢ではないのか?
- そもそも、いま食べる必要があるのか?
- パンという選択肢で良いのか?
- 本当に空腹を感じているのか?
- 今日一日で食べたものとのバランスはどうか?
考え始めるとキリが無いようにも思いますが、ただ選ぶのではなく「考えて選ぶ」という行為が入ることで、実際に購入した後の自分自身に対する納得感が変わりました。
さらにパンを食べる時には「どうして食べたいと思ったのか?」を考えてしまうので、しっかりと自分に吸収されているようにも感じます。今までは何となくだった「パン」という存在が少しばかり意味のあるものになったような感じです。
覚醒塾は、本来の自分の本音に気づき、潜在能力を最大限発揮するための、自己実現ツールです。
(覚醒塾案内ページより)
自分のことは知っているようでほとんど知らないこと方が多いのではないでしょうか。
第1回目の課題である「好きなこと」にしてもそうです。
わたしはある程度は「好きな」人生を生きていると思っていましたが、実際には「好きなこと」をほとんど選択できていなかったという事実に気づきました。
わたしの例ではありますが「まずは自分の現在地を知る」こと。そして、講義と課題を通して対処法や成長のためのルートを知り、実践することができます。
「覚醒塾」に興味がある方は、下記のサイトをご参照ください。
参考:覚醒塾 第1ステージ 第1ターム 第1講「覚醒とは何か、好きなことを選択する」