今日もどこかで交通事故が起きています。車と車の接触事故、車にはねられ病院に担ぎ込まれる人、1日に日本全国で何百件も起きている交通事故は、職場や家庭においても発生していることなので、非常に身近な事件と捉えられます。
こうした事故は、どうすることもできない苦しみとなるでしょう。人によっては「俺ばかりが事故に遭う。どうしてだ。世の中がどこか狂っている」と思う人もいるようですが、本当に世の中が狂っているのでしょうか。
今回は、一番身近にある“交通事故”を取り上げて、そのものの見方や考え方の練習をしてみましょう。
はじめに
現代では、一人一台ともいわれる乗用車の普及率ですが、その昔、自家用乗用車は高級品として、一家に一台あるかないかといわれるほどでした。
そうした高級品でもある乗用車が一般に普及したのは、戦後の高度経済成長期だったといわれます。また、自動車保有率の上昇と呼応して交通事故が増加し、1959年には年間交通事故死者数が一万人を突破する事態になると、戦争でもないのに膨大な数の人が犠牲になることから「交通戦争(第一次交通戦争)」と比喩されました。
こうしたことを受けて、1970年に警察や道路管理者などが教育と対策に取り組んだことと、シートベルトの普及等による自動車の安全性が向上したことから、事故率、死亡率が減少し、事故件数、死者数ともに減少していきます。しかし、1970年代後半に入ると自動車の保有台数が増加し、再び交通事故が増加しはじめる状況となり、1988年に再び交通事故死者数が一万を超え「第二次交通戦争」と言われる状況になりました。
こうした「第二次交通戦争」は、1990年代になり自動車アセスメントが開始され、エアバック、衝撃吸収ボディ、プリテンショナリー(衝撃時締め付け)機能付きシートベルトなどといった車両側の安全装備の向上が取り組まれ、1996年に交通事故死者数は一万人を割り、2004年には7425人にまで減少します。こうして「第二次交通戦争」と言われる状況は終結したのです。
2010年になると、過去30年間にわたり横ばいであった交通事故率は減少します。こうしたことは、事故を未然に予防するアクティブセーフティが安全対策として普及しだしたことが挙げられ、横滑り防止装置や衝突被害軽減ブレーキなどの普及により、交通死亡者は3000人レベルまで減少したことを踏まえると、事故を減らす技術の普及が事故率を下げたと言えるでしょう。
こうした変遷の中で、本当に世の中は狂っているといえるのでしょうか。一見すると狂っているように考えられる場面はあったかもしれませんが、徐々に改善を行い、安全性の技術向上と警察や道路管理者などの教育と対策の取り組みは繰り返し行われてきたことから、事故死者数の減少に繋がってきているとも捉えることができるのではないでしょうか。
しかしながら一方で、交通事故は世の中のせいにばかりはできない側面があります。今回は、そうしたところを今一度考えてみる機会としてみてはいかがでしょう。
1、事故はなぜおきる
あらゆるビジネスの危機管理に用いられるハインリッヒの法則というものがあります。この法則は交通事故や医療事故に関わらず、現場の危機管理などでも用いられる法則で、物損事故を扱う米損害保険会社に勤務していたハーバード・ウィリアム・ハインリッヒ氏が提唱した労働災害の経験則のひとつです。
この、ハインリッヒの法則は1つの重大災害や重大な事件1件につき、軽微な事故が29件、さらにその背景に隠れた事故寸前の案件(ヒヤリハット)が300件存在しているといいます。
このような法則から、「大事故が起こる前に、必ず小さな事故をいくつか起こしている。さらに、小さな事故を起こす前には、ヒヤリとする場面が数回ある」ということが、交通事故が起こるまでの過程として考えられます。
このように、大事故を予想できるようなことが起こると解っていても、人は自分の間違いを認めることができず、責任を他に転化したり、自己の正当化をしようとしたりして、突然のようにみえる事故を起こしてしまうのではないでしょうか。
また、事故が起きる陰には必ず、人として持ってはいけない心が顔を出していることが多くあります。それは、集団生活の中で、個人のみを重視する利己主義に陥っている心の状態です。そういったものが事故として現れると観ることができるでしょう。
2、事故の正体
事故が起こるということは、その当事者を苦しめ、殺すために現れるのではありません。実は正しい生活を教えてくれる女神であり、私たちを支えてくれる応援者とも捉えることができるのです。
現実の事故というものは、被害者の立場でも、加害者の立場でも、どうすることも出来ない悲しみや苦悩の真っ只中といえるでしょう。また、なかには言葉に表すことのできない惨状の当事者になることもあります。
ただ、どうしてこうした事故にあわなければならなかったのか、という心の状態を考えることから始めることがひとつのポイントになります。また、自分だけの利益・幸福・快楽を求めて、他人の立場を全く考えない“心の状態”に陥っていなかったか、思いを巡らせてみることができると良いでしょう。
事故は、自分自身の間違いを知らせ、人間的向上を約束してくれるものともいえるのです。嫌だ、苦しい、逃げたいといった思いも、込み上げてくるかもしれませんが、時間をかけながら真正面からしっかりと、じっくりと事故として現れた困難と向き合ってみてはいかがでしょうか。
3、事故を喜ぶ
今回取り上げている“事故”は、永い人生の中で必ずといっていいほど誰でも経験するような“人生の壁”といえるかもしれません。この“人生の壁”という表現から連想される中には、病気や生活苦も考えられ、これまで取り上げてきた事故も含むことができ、大小様々な悩みや苦しみ、困難等々と数限りなく存在しています。
ここで事故に直面した時のことを思い浮かべてみると、人生の壁といわれるような事柄に直面した時、最も大切なことは“心の据え処”にあるということです。
外見のみの原因にばかり囚われ、他人を責め、周囲の環境などのせいにして、怒り、恨み、憎む心ばかりを増幅させてしまっては、解決できるものも解決の道筋は遠くなることでしょう。
さらに、“自分はダメ人間だ”と自分自身を責めて頭を抱え、心を暗い方向にばかり向かって考えれば考えるほど、環境はますます悪くなり、ついにはドロ沼に追い込んでしまいますので、気をつけておかねばなりません。
難しいことかもしれませんが、何としても自分自身の心を明るい方向に大転換させることが先決です。では、心を明るく、方向転換させるためにはどうすればいいのでしょうか。
それは、“事故に感謝すること”です。
4、現象化した事柄を受け止め、能力向上の足場とする
“事故に感謝する”ことは、心の据えどころを大転換させる考え方ですが、漠然と感謝するだけでその事故の正体を掴まなければ大転換することは難しいことでしょう。
事故の正体として、自分自身では気づきにくい癖、気づいていても直そうとしない癖、不自然でわがまま勝手な心意や行為が現れたのが“事故の正体”である、と捉えてみてはいかがでしょう。
交通事故にのみに限定してしまっては、生命がいくつあっても足りません。ですから、大きく視野を広げた時に思い返すことができる事柄を思い出してみてください。1、事故はなぜおきるとの場面で紹介した「大事故が起こる前に、必ず小さな事故をいくつか起こしている。小さな事故を起こす前には、ヒヤリとすることが数回ある」ということが、交通事故が至るまでの過程にあったはずです。
また、“事故”には交通事故だけでなく、「家庭内での出来事」や「職場内での出来事」までも含むことができ、そのひとつひとつは困難な事柄であったかもしれません。
しかし、そうした困難な事柄を明るく前向きに取り扱うことで、これまで気付くことができなかった自分自身の至らなかった不足箇所に気づくことができるようになるのです。さらに、その時機を改善のチャンスと捉えることで、能力向上の足場を確保できるのです。
人間の能力というものは、ちょうど南極に浮かぶ氷山のようなもので、海上に顔を出している部分は、ほんのわずかで、海底に隠れている部分は潜在能力に例えられます。その潜在能力を発掘していくためになくてはならないものが、困難なことに出会った時です。
困難な壁にあたりながら改善への一手を打つことで、私たちの潜在能力は開発されます。また、そうした潜在能力の開発は、行動を積み重ねることで無限に向上していけるのです。
いかなる困難なことが現象化しても、苦しみの中から希望と喜びを持ち、次の場面への進むための足がかりとして挑戦しつづけてみてはいかがでしょう。
最後に
人生を見事に生き抜くために努力するということは必要不可欠の事柄といえるでしょう。しかし、その努力が正しい方向に向かっていれば問題はありませんが、もし間違った方向に向かっていたら大変なことになります。何故ならば、努力が強ければ強いほど、不幸のどん底に落ち込んでいってしまうからです。
こうしたことは人間の盲点ともいわれ、特に大きな困難に当たった時など、その渦中に巻き込まれて、自分自身を見失うことで方向を狂わしてしまう恐ろしいものになることでしょう。
今回は身近にある“交通事故”について取り上げてきました。私たちの周りには事故に関わらず、良いと感じることも、悪いと感じることも様々なことが周囲で現象化しています。
そうしたひとつひとつ事柄を、ただそれだけと片付けるのではなく、逆に利用することで自分自身の心の状態を客観的に見つめて、さらなる飛躍や改善の一助として活用してみてはいかがでしょう。
現象化した事柄の捉え方は千差万別です。だからこそ、一つの捉え方から脱却して色々な考え方を模索してみることです。すると、これまで感じることが出来なかった広い世界を感じるとともに、より善い出会いにも繋がることでしょう。