はじめに
「困った」「つらい」「どうしよう?」…私たちの生活には、嬉しいこと、楽しいことだけでなく、苦しいこと、悲しいことも沢山あります。なぜ苦しいことや嫌なことが起きてくると思いますか?
「できるなら困難な出来事を受けることなく生涯を送りたい」と願うのは人の常でしょう。とは言え、実際にはあまりにも苦しみが多すぎるように感じることもあるでしょう。
大きいものから小さいものまで、様々な困難を並べてみると、一生のうちにどれほどの困難が出てくるのでしょうか。考えただけでも、頭がおかしくなるくらいに悩まされてしまいそうです。
今回は、人生の中で無数に現れる“困難”な出来事から抜け出す方法を提案していきます。さらに、抜け出す方法を模索していく中で、「実は困難な出来事には大きなメリットがある」ということに気がつくことができれば、幸いです。
1、困難から逃げることができるのか
困難から逃げることはできるでしょうか。人はあらゆる方法で、その困難からのがれようとしますが、のがれることが出来ずにさらに苦しい場面に遭遇するように思えます。こうした場面に遭遇するのは、いったい何が原因になっているのでしょうか。
人は誰しも、日常の中で、自由に発言したり、行動したりすることが可能ですが、社会生活の中にあっては常に制約された中での“自由”とも受け取ることができるでしょう。しかし、社会生活にある制約を破る人はいます。そういった場合、“自分勝手で気ままな心の持ち主”とみることができるでしょう。
この自分勝手な心が人間関係を困難なものにし、他の困難までも誘発させるのです。突き詰めれば「自分の蒔いた種」ということもできます。だとすれば、逃れようとか、逃げようとかするのをやめて、己の手で刈り取る道を選ぶ方がどんなに近道であるでしょう。
自らの手で“困難”を刈り取る決意を固めた時、人は自分自身の心にあった“自分勝手で、気まま”な心は徐々に取り払われ、困難から脱出する道筋へと進むことが出来ます。
2、“困難”という名の標識
人生を“時間”とすると、今の自分は広大な地上のただ一点に存在しているとイメージすることができるでしょう。さらに、視点を広げて考えてみると、想像もつかないほど遠い過去から変わらずに続く昔から、果てしない未来にと、続いて流れてゆく時間の流れのただ一瞬の“今”に生きています。
そして、今生きている一瞬一瞬は右に進むか、左に進むかの局面に、常に立たされていると捉えることができるでしょう。一方は暗く、冷たい困難な陰の面。もう一方は明るく、温かで喜びの陽の面と明暗の二面があります。
私たちは、どちらに進むのも自由自在です。ただ、暗い方に行けば困難不幸を重ねる道が控えていますし、明るい面に進めば幸福を築く道が控えています。ともすると、私たちは常に岐路に立っているということになります。
そこで大切なことは、「幸福を築く道」「困難不幸を重ねる道」という標識を立てて、確信を持って進んでいくことなのです。
◯「幸福を築く道」
全てのものを抱き、育て、実らし、成就させる明るく朗らかな心を持ち続け、周囲の人と仲良くしていくところに愛情が溢れるようになります。そして、喜んで行動を起こすところに、人間関係の輪が形成され、周囲を巻き込みながら発展を築いていくことになるでしょう。「よろこびの道」とも言えます。
◯「困難不幸を重ねる道」
暗い心をいつまでも持ち続けることです。心配、怒り、怠ける、妬む、隠す、責める、嫌がり嫌う等々は、争いの元凶となり、すべて“困難不幸を重ねる道”となります。親子・夫婦の争い、事業商売の困難、肉体健康の悩み等に種々相として現れ、嘆き苦しむ元になるでしょう。
幸・不幸の道筋には必ず“標識”が立てられ、その標識はそれぞれの柱によって築かれています。「幸福を築く道」の標識には“素直な心”という柱が使われ、何事に対しても、真っ正直な強さを持っています。反対に「困難不幸を重ねる道」の標識には“自分勝手で気ままな心”という柱が使われ、自己中心的で、自分の思い通りにならなければ気が済まない心が支えています。
この二つの標識は、誰の心の中にあるものです。しかし、どちらかを選択していくとするならば、“素直な心”という柱が使われている「幸福を築く道」の標識を目印に歩みを進めていきたいものでしょう。もしかしたら、草に埋もれてしまっている人もいるかもしれませんが、誰もがこの標識を立てることができます。
自分の心の中にある標識をしっかりと立てて、選択して進むことで、“困難”に遭遇しても、慌てることなく、冷静に、次へと進む“分かれ道”を見つけ出すことができることでしょう。
ここで、私たちの周囲に目を向けてみましょう。日々の生活の中で、誰もが自分一人だけで生活していると言い切れる人はいないでしょう。家庭では親子・夫婦、職場では上司部下・先輩後輩、事業商売ではお得意先やお客様というように、多くの人たちと関係を持って日々を生活しています。
ところが、現在では傍迷惑な生活をする人があっても、注意する人は少なくなってきていますし、下手に注意をすれば殺されてしまうかもしれないといった恐怖を感じることさえあることでしょう。
人間社会の制約の中で暮らしている私たちには、決められている制約(ルール)から外れることで、リアルタイムで不都合な困難が現れてきます。それは「今のままでは、危ない」という自然に発生するメッセージなのかもしれません。
誰かを変えようとすることは、非常に難しいことですが、自分自身が困難な出来事から脱出するための唯一の方法は、その困難な出来事に真正面から立ち向かうことになります。そして、ほつれた糸をほぐすかのように、ひとつひとつじっくりと見つめながら解いていくことが最良の方法となるのです。
3、カギは“困難”だった
困難な出来事を乗り越えた時に現れるのが、想像もつかない自分自身の人格です。幸福という名をかりて人間形成がなされます。困難な出来事は、人を殺すために現れるのではなく、今よりもさらに素晴らしい人間へと立派な人格を創り上げるために現れます。
そうしたことを頭で考え、わかっているつもりでも、実際に困難が目の前にやってきた時、人間は慌てふためき、困難な出来事の実態を知らずに苦しんでしまうものです。そのうえ、困難の渦中に飲み込まれてしまうがために、そのものの本質を見極めることが出来なくなってしまうのです。
困難な出来事がやってきても慌てず、まず本質なり、実態なりをしっかりと捉えて、どこから打ち崩していけば良いか知ることから始めてみてはいかがでしょう。
糸のもつれを急いでどうこうしようとすれば、かえって糸は更にもつれてしまうものです。困難な出来事も全く同じことで、どこに糸口があるのか見極めて取り組むことが大切です。その時には、決して恐れず、逃げずに、正面からその物事と向き合うことが大切になります。
ここで、押し迫った困難をどのように受け止めていけば良いのかまとめておきましょう。
1)自分に降りかかった火の粉は、自分で払いのける決意をすること
2)真正面から困難な出来事に立ち向かうこと
3)本質を見極め、ひとつずつ正しく切り拓いていくこと
4)困難に対して、慌てず、静かに、喜んで迎えること
無理難題にぶつかっても、もつれた糸を解きほぐすような気持ちで、目の前の困難な問題にあたっていきましょう。決して急いではいけません。騒ぎ立ててもいけません。もつれた糸をじっくりと見つめていると、次第に糸口は見つかります。そして静かに、ひとつずつほぐしていくように解きほぐしていきましょう。
嫌なこと、苦しいことをどうしても“慌てず、静かに、喜んで迎える”ことなどできないと考えがちですが、実際は“困難は我々の味方”なのです。これまでにない困難な出来事が次々と起こる場面もあることでしょう。そうした時こそ、さらなる成長のチャンスがやってきたのだと、どっしりと構えて迎えるような心構えをつけることが大切になります。
何度も繰り返し、何度でも取り組んでいくところに改善の兆しが見えてくることでしょう。
最後に
困難に対しての心構え、取り組み方、行動の仕方について展開してきましたが、いまひとつ困難について考えさせられるものがあります。それは「なぜ、そういったことが起こるのか」という疑問です。例えるならば、片側から光を投げかけて、中央に物体を置くと片側に影のところができる理由と同じです。
困難=陰は、本物ではありません。本物である物体を取り除くと陰が消えてしまうように、その本物を改めなければいつまでも変わることはできないということになります。つまりその本物とは、自分本位に囚われた自分自身の心です。
単純に考えれば、自分本位に囚われた自分自身の心を取り去れば良いように思えます。しかし、どのように取り去れば良いのか…悩みは絶えません。
取り去るにしても“自分で処置できる”ものと“自分ではどうにもできないもの”とがあり、ますます目が眩んで、どのように行動していけば良いのか困ってしまいます。
ここで、改めて押さえておきたいポイントは「困難は、自分自身をよりよくしよう。人よりもさらに一歩向上させよう」として現れる現象であることです。
人から悪口を言われ、ありもしないことを囁かれたり、噂されたりすると、腹を立てたり、悔しいという思いに飲み込まれて“自分自身”を見失ってしまいがちですが、深呼吸をして、心を落ち着かせて、冷静な自分を取り戻しましょう。
自分自身には何一つ付け加えるものもなければ、けなされて失うものはありません。悠々と自分自身から、静かに、喜んで困難な出来事を迎え、さらなる人格形成の一歩として、取り組んでみてはいかがでしょう。