海外に興味がある、なんなら別の国に生まれたかった、そちらの方が自分らしく生きられた気がする、、と感じることはありませんか。
日本が窮屈に感じる人もいるでしょうか。
少なくともヨーロッパなどに見られる長い休暇など働き方に羨ましさを感じる人は多そうです。
私は学生の時から日本が窮屈に感じて、理由はわからないけど海外や英語に自由を感じていました。だから学校は苦手だったのですが、英語は好きでした。
その後、海外に行って旅をしたり、友達ができたり、英語でコミュニケーションをとる機会が増えると英語には日本語にない自由や自分の道を切り開いていくパワーがあると感じるようになりました。
ここでは日本語と英語の違いから英語に学ぶ自由に自分らしく生きるためのエッセンスを書いてみようと思います。
なぜ英語は自由なのか
英語と日本語の一番の違いはどこにあると思いますか。音も違えば文法も文字も違いますが、一番の違いは主語の有無だと感じます。
日本語ではあまり主語をはっきり言わないですよね。
例えば「お腹すいた」「喉乾いた」どちらも自分の状態や感想なのに「私は」は省略されます。英語だと「私はお腹がすいた」「私は喉が渇いた」と些細なことでも主語がつきます。
「私は」(主語)がつくと自然と「私」と「あなた」の境目がはっきりします。
お腹が空いているのも、喉が渇いているのも、他の誰でもない私だと明確になるからです。一方で日本語は主語がないので「私」と「あなた」の境目が曖昧になります。
主語があるということは、その言語が個を尊重する文化を持っていることを想像させます。「私」か「あなた」の明確な区別が存在するからです。
そこには個人の輪郭がはっきりすることで一人ひとりが感じていることや思考が尊重される雰囲気があります。人と違っても認められる、私は私でいい、という自由さを感じませんか。
個が尊重される自由
学校の中でみんなと同じように過ごすことが不自由で窮屈に感じていた私にとって、英語の主語がある感覚、自分と他人をはっきり区別する感覚は自由そのものでした。感じ方や意見が人と違っても、違うのが当たり前で個々が尊重される感じがしたからです。
学校に行けば時間割が決まっていて、着る服も靴もみんなと一緒で窮屈に感じていました。本当にやりたいことがなかなかできないというか、自由に手足を伸ばせないバスタブに浸かっているような空間で息が詰まりそうでした。(てゆうか、もう息止まっていました。笑)
何においても正解が決まっているような気がして、みんなと同じ感じ方や意見が持てない自分が、はみ出してしまっているような疎外感と同じようにできない劣等感が積もっていました。
そういう時に英語に触れると不思議と元気になったものでした。周りがどうであっても自分が感じていることは自分にとっての真実で、ちゃんと尊重されるような感覚になったからです。
高校生の時にオーストラリアに行ったのが初めての海外なのですが、その時に「英語だとなんて意見を言いやすいんだろう」と感じたことを鮮明に覚えています。きっと英語という言語に流れる個を尊重する文化が後押しになっていたのだと今になって振り返っています。
私とあなたは違うという前提
アメリカやカナダの友人と話しているとよく「どう思う?」と聞かれます。他人は自分とは違う感じ方をするのが当たり前だと考えるので聞いてくれるのです。
日本ではあまり意見を求められる場面がないので聞かれても戸惑う場合もあるかもしれませんが、私は「どう思う?」「あなたは?」と聞かれるたび、生き返ったような気持ちになりました。みんなと一緒じゃなくてもいい、違って当たり前、その前提が嬉しかったです。
アメリカで出会った自己中文化
全ての英語圏がどうかはわかりませんが、アメリカでは自己中文化を良く感じました。周りよりも「私が」どうしたいかか一番大切という感じです。
それを痛感した出来事がありました。アメリカで地下鉄に乗っていた時のことです。急にチアリーディングの練習を始めた3人の女の子がいました。しかも、かなり本気です。声のボリュームも動きも本番さながら、電車のドアを鏡がわりに何回も練習を繰り返していました。周りの乗客は特に無反応で気にとめる様子もありませんでした。
日本だったらまず、周りのことを考えて練習しないだろうし、したとしても周りに白い目で見られそうですよね。自分中心文化はこんな感じで、「自分がどうしたいか」が「周りがどう思うかよりも先にあるのです。
これはわかりやすい例ですが、店のサービスや日常会話もマイペースに自分中心に過ぎていくのがアメリカだと感じました。
日本語の不自由さ
一方で日本語は自分と他人の区別が英語ほどなく、まず周りのことを考えることが自然なことかもしれません。日本のサービスは素晴らしいし、アメリカでよく見るマイペースな接客なんてしたらクレームの嵐でしょう。
気がつかないうちに「周り」のことを先に考える人、自分より周りの目線を気にする人は多いように感じます。私も学生時代から不自由さを感じていたのは、無意識に「自分はどうしたいか」よりも「周りはどう思うか」を優先して考えていたからでした。主語がない日本語話者が感じやすい不自由さなのではないでしょうか。
英語感覚と日本語感覚の融合が導く共存共栄
だからと言って、日本語が不自由で英語が自由という単純な話でもありません。アメリカでしばらく暮らしてみて感じたのは英語の持つ自由さだけではありませんでした。
それまでは息苦しさしか感じなかった日本語の主語がない感覚に英語にはない美しさを感じるようになりました。
他者との共存の仕方が英語と日本語では違うからです。
英語の感覚だとカラフルなドットがたくさんあってそのひとつ一つは重なり合うことはないイメージですが、日本語だとカラフルなドットが少しずつにじんで混じり合うことでハーモニーが生まれるイメージを持っています。
植物でいうと、英語は個々が美しく主張して咲く花が集まっていて、調和した全体の雰囲気よりもその花一つ一つが主役という雰囲気です。一方で日本語は各々美しく生きる植物たちが集まって調和する森という感じでしょうか。
日本語に主語がないことも、調和があることも日本語の中に流れる自然観や宗教観が要因なのではないかと考えています。全てのものに神が宿り、自らの内にも神が宿る豊かな自然の中で生まれた文化が流れているように感じました。
でも、日本語の持つ調和は一歩間違うと不自由さになります。「自分は」より先に「周りが」がある状態だと調和はただの同調になるからです。先に出したドットの例だと、それぞれの色が混じり合って一色になって個性が消えてしまうということです。
日本語話者にとってそれぞれの美しさもあって調和している状態を作るには、英語の主語がある感覚がヒントなのではないでしょうか。
英語感覚でつくる自分らしい人生
日本語話者が英語から学べる自由に自分らしい人生を描くエッセンスは「人と違うのが当たり前」と他者との違いを認める感覚とまず「自分はどうしたいのか」を考える感覚です。
ついつい周りに合わせてしまう、周りの反応を気にして自分を抑えてしまう、人前で自分らしくいられない、そんな時に英語が持つ自由さとマイペースさが自分らしさを思い出させてくれそうです。
私はアメリカで生活していて「私は」と話すたび、「あなたは?」と聞かれるたび、周りとは違う私という個人を無意識的に感じました。違いを認める文化の中で英語を話したことで「人と同じでなくてもいい」と自分を大切にする感覚を育みました。
日本が窮屈だとか、学校が嫌いだと感じるなら、英語の持つ自由さと個人主義を体の中に取り入れてみるのはどうでしょうか。
英語の感覚が埋もれていた私たちの個性を目に見えるものにしてくれます。
周りと調和する感覚と、自分の個性を大切にする感覚、どちらも手に入れた時、持って生まれた個性は社会と調和し、才能として発揮されるのだと思います。