友達とたわいもない話をする時。
気軽なラインでのやりとり。
なんてことない会話なのになぜか相手にどう思われているのか気になってしまう。
「この受け答えでいいのだろうか」とか「この人はなにを望んでるんだろう」「どんな風に接するのが正しいんだろう」とリラックスできなくなって、しまいには自分の意見もよくわからなくなってしまう。
そういうことってありませんか。
私も「これでいいのだろうか」と自分自身をチェックする癖がありました。
「この対応であっているか」「今これを感じている自分は正しいか」
正しいか正しくないか、いいか悪いかで考えていました。
人はなぜ自分自身をチェックしてしまうのでしょうか。
人前で自分らしくいられないのはどうしてでしょうか。
そこには意外な理由がありました。
私たちは何をチェックしているのか
私たちがチェックしているのは「あるべき自分」でいるかどうかです。
「あるべき自分」は学校で言われたこと、社会での空気感、親からの影響など成長過程のいろんな影響で出来上がっています。
この「あるべき自分」は人との関係を良好にするため、自分を誰かに認めてもらうため、または自分で自分を認めるために演じてしまう自分です。
その姿には多くの場合、親子関係が根深く影響しています。「こんな風にしたらダメでしょ」とか「こうしなさい」とか言われた体験や親が不機嫌になっている様子から「これはやってはいけないことなんだ」と察知した感覚が元になっています。
そして「自分は今、その通りにできているだろうか」とチェックしてしまうのです。
親に言われたからってそこまで鵜呑みにするものだろうか、と思うかもしれません。
でも、実際に「人前で自分らしくいられない」「人目が気になる」「自分で自分をチェックしてしまう」という人の話をよく聴いていくと最終的に影響を与えているのは親であることが非常に多いです。
私は、感じよくするように言われて育ったので、相手にとって感じがいい人であるかどうかいつもチェックしてしまっていました。
頭では「そんなこと重要じゃない」とか「もっと大切なことがある」と考えていたにもかかわらず、チェックする癖は抜けませんでした。
なぜ親から言われたことは、ここまで影響力を持つのでしょうか。
「あるべき自分」と愛される条件
親に言われたことができなかったり、親の良しとする振る舞いをできなかったりして怒られたことはありませんか。
または親が不機嫌になることはなかったでしょうか。
私はよく「なんでそんなこともわからないの」「人の気持ちを考えてみなさい」とかよく言われていました。母にとって、私は人の気持ちがわからない子どもだったのです。
人の気持ちを考えていない行動をとると母が不機嫌になってしまうこともあって「私はどうしたらよかったんだろう」と戸惑うことが多かったです。
一方で、母の考える思いやりが実行できた時には褒められたりもしました。
それは、親がよしとすることをすると認められるけど、そうでない言動は認められない状況でした。
残念ですが、ありのままの自分で認められることはなく「あるべき自分」でいた時にだけ親に認めてもらえる、愛されてもらえるのだと学習してしまいました。
そして「あるべき自分」でいるか自分自身をチェックしてしまうことに疲れて、その癖を変えようとするまでその学習は訂正されることはありませんでした。
私は「今の自分はこれでいいだろうか」「相手にとって感じのいい人だっただろうか」と自分自身をチェックしながら「本当はこんなことどうでもいいはずなのに」と思っていました。
気にするのをやめられませんでした。
それは反応的で本当にやりたくてやっているわけではないのです。
子どもの頃に親とうまくやっていくために手に入れたスキルが心の癖となり、大人になった私にストレスを与えていました。
心の癖はなぜ消えないのか
この心の癖はなかなか消えません。
それは感情を伴っているからです。
親に怒られたり、親が不機嫌になったりした時に感じた「なんか悪いことしちゃったかな」とか「どうすればよかったんだろう」とかいう戸惑いや親に見捨てられてしまうんじゃないかと感じた不安や悲しみが心の癖の原動力になっているからです。
これは、インナーチャイルドやトラウマとも言われます。
一度体験した不安や悲しみはもう二度と味わいたくないものですよね。
だから「あ、また怒られる!」と察知すれば自分の行動を変えてしまうし「こういう時はこうしたほうがいい」とどうやったら怒られなくて済む方を選びます。
よくわからないマニュアルを作っている気分でした。
こうして、どうしたら親に認められる「あるべき自分」でいられるか考える心の癖ができあがります。
インナーチャイルドが癒されなければ、生み出されるネガティブな感覚は色あせることはありません。
だから心の癖も消えないまま、色鮮やかな感覚を伴って残ります。
やめようと思っても思考ではどうにもならない理由はここにあります。
人間関係の基盤をつくる母親との関係
母親は私たちが一番最初に関わる人間です。
だから母親を通して人とどう関わるかを学びます。
そこで人とうまく関わるためにどんな方法がいいかを学び、母親との関係はそのあとの人間関係に影響を与えます。
母親との関係で「あるべき自分」でいることで相手に認めてもらおう、相手とうまくやろうとする心の癖を身につけてしまうとほかの人の前でも同じことをしてしまいます。
もともとは母親とうまくやっていくための行動だったはずの「あるべき自分」でいることで、他の人ともうまくやっていこうとすると、誰と話す時も自分は「あるべき自分」でいるだろうか、正しいだろうか、とチェックすることになります。
母親が正しい世界
母親にあれこれ言われても、認めてもらえなくても、立ち止まって「親の言っていることは正しいのか」と疑う客観性が持てれば心の癖は生まれにくいものです。
でも、それはなかなか難しい事です。
幼い頃は誰でも母親が正しい世界に住みやすいからです。
親が正しいと言ったことや当たり前と言ったことが世界の真実になってしまいます。
母に「思いやりが大切」とよく言われた私は、人へ思いやりが持てないと世の中でやっていけないのだと怖くなりました。
よく言われたのは「あなたは思いやりがない」とか「人の気持ちがわからない」とかでした。
「こういう時はこうするのが当たり前でしょ」「本当にわからないの?」なんて言われていた記憶があります。
今となっては「人それぞれの感じ方があるんだよ」「私の気持ちをわかってないのそっちじゃない?」って感じですが、当時は「なんで普通はわかるのに、私は人の気持ちがわからないんだろう」とものすごい不安になりました。
「人の気持ちがわかるのが当たり前、わからない自分がおかしい」と感じたし、そんな当たり前のこともできないと人生はお先真っ暗なんじゃないかと自分の人生を真剣に心配しました。
母親の言うことが正しいと感覚的に感じるのに実際に正しいかどうかは関係ありませんでした。
母親が正しい世界で幼い子どもが客観性を持つことは非常に難しいです。
大人になってからもなかなかここから抜け出せずに、冷静に考えれば他人の気持ちなんてわかるはずないと頭で分かっていても相手の気持ちがわからないことをいつも不安に感じていました。
いつまでも母が言ったことが正しい世界に住んでいたなぁと感じます。
心の奥に潜む親の影響
親子関係は私たちの人生に影響を与えます。
頭では「そんなこと気にすることない」とわかっていてもなぜか自分のことをチェックしてしまうのは幼少期の親との関係性に要因があるのかもしれません。
親とうまくやっていくために覚えたやり方を無意識に繰り返して「あるべき自分」でいようとしてしまうのです。
それは実際に目の前に親がいてもいなくても関係ありません。
だからなぜか人前で自分らしくいられない、人目が気になるという人は、実際に目の前の人のことが気になっているのではなくて、親に認められる「あるべき自分」いられるかどうかが気になっているのかもしれません。
本当に気にしていることはなんでしょうか?