はじめに
私たちの日常を振り返ってみると、「心配のタネ」があまりにも多いような気がしませんか。家庭内では夫・妻・子供のことを心配し、職場内では上司・部下・同僚との人間関係で思い煩うこともあるでしょう。
こうした「心配のタネ」が私たちの日々の生活を暗くしています。心の中では、心配事のない毎日と明るくて楽しい日々を、私たちは求めていることでしょう。
“明るくて楽しい生活をしましょう”と話したところで、「そんな夢のような毎日…あるわけがない」と、言い捨ててしまう人もいるかもしれません。ですから、少し考えてみることから始めてみましょう。
今回は、“心配”のない、“明るくて楽しい生活”を送る方法を考えていきたいと思います。
1、「心配」って、なんだろう。
誰もが「心配のない、明るくて楽しい生活」をしたいと思っていることでしょう。しかし、一言に“明るくて楽しい”と言っても人によって大きく異なります。ある人はスポーツをする時が一番楽しいといい、ある人は音楽を聴く時が楽しいと話すように、形の面ではそれぞれ異なることがわかります。
一方で、心の面を観てみると共通点があって、晴れ晴れとした気持ちで物事に打ち込む状態であるといえます。寝食を忘れるほどに打ち込んでしまう物事には、ウキウキワクワクとした心の状態なので、心配事などない状態といえるでしょう。
では、実際に私たちの生活を振り返ってみましょう。「なかなか、晴れ晴れとした心持ちにはなれていない…いや、なれない」と思う人が多いのではないでしょうか。自分では考えもつかないほどの執着心を持ち合わせていたり、思い込みを持っていたりすることで、心の中は不自然な力が働いていることがあります。
不自然な力が働く時間が多いほど「心配ごと」が多いと言えるかもしれません。心配事を減らして、明るく楽しい毎日を過ごしたいのに、そうした気持ちにさせてくれない日常の毎日に私たちは振り回されているのかもしれません。
では、「心配」とはどういう意味なのでしょうか。
①先行き不安な結果がおこりはしないか(どうなるか)と心を悩ますこと
②先行きへの布石としての世話・援助や金品の付け届け。
(『新明解国語辞書』)
②の心情であれば、なにも悪いところが感じられません。むしろ、日常生活をする上で、“心を配って”働きかけている行動となり、共同生活を営む私たちにとってなくてはならない心持ちといえるでしょう。さらに、自己成長も望むことができ、周囲の人間関係も良好になっていく要素を含む内容といえます。
反対に、①の心情では、私たちが一般的に使っている「あの人は心配性だ…」という意味に該当するでしょう。決して良い意味で活用されているわけではなく、“神経質だ”という言葉と同じように使われることが多くあるようです。つまり、心を悩ます憂えや不安があるといった意味の「心配」が問題となります。
2、心を悩ませる「心配」を捨てるには、どうすればいいの?
心を悩ませる心配は良くないものだとわかっていても、現実にはなかなか取り去ることが難しいようです。人生には、心配事を取り去り、幸福になれるという決め手があるのでしょうか。
誰しもが、こうした決め手を求めながら、実際は見つけることができずに、諦めている場面が多くあるのかもしれません。人生というものは、刻々に変化を繰り返しながら流れるように、時を刻み続けています。そして、一瞬のうちに、どういうことが身辺に現れているのか、全く予想ができない状況でもあります。
色々と様々に変化する世の中や環境の中において、いつも安定した生活を見出していこうと働きかけている私たちは、心を悩ませる「心配」を取り去ることができるのか不安になってしまいますが、具体的な方法として「受容」と「発動」の2つの行動をご紹介していこうと思います。
1)全てを無条件に受け入れる「受容」の行動について
“心を悩ませる心配”をする場合、多くの人が“結果”に囚われていることが多くあります。まだ出てもいない“結果”に対して、アレ、コレと考えても仕方がありません。仕方がないのにも関わらず、結果に囚われていることがあまりに多いのではないでしょうか。
家庭内や職場内での人間関係において、自分の意地を張り続けることで他者の意見を一切受け入れない生き方をしていたら、物事を依頼されたり頼まれたりすることは少なくなり、言葉すらかけてくれなくなるかもしれません。
こうした意地を張り続けると、貧乏になったり、孤独になったり、自分自身の健康状態も害されてしまう可能性があります。
人が不幸になるのは、その時代の政治や経済、社会の仕組みの誤りなどからくる不完全な状態が原因となっている可能性もあります。しかし、最も大きな原因は、その当事者が「物事を受け入れない」といった頑なな心にあるといっても過言ではないでしょう。
人間が感情に囚われた時、その人の知性は冷静さを欠いた状態で、相手の言葉尻を捉えて揚げ足をとるようになり、相手を憎むことに変化して、ついには個人を攻撃するようになります。さらに、言葉で表現することができなくなると、腕力を用いて争いとなり、自分も相手も不幸な状態となってしまうことでしょう。
「受容」することは、相手との一致を目指すことにあります。しかし、通常では相手が自分の意見に合わせてくれることを強く望んでいます。同時に、相手も同じことを望んでいるので、なかなか一致することができません。だから、物事もうまく進むことが難しい状態に陥っていきます。
そうした時こそ思い切って、自分から相手に求めることを止めて、相手が欲していることをしていきます。つまり、相手の主張を「受ける」姿勢に転じるのです。そうすることで、相手と自分とが一体になる感覚を得ることができます。
立場や方向性の相反する二つのものが融和する時、これまでになかった新しいモノが生まれてきます。少々相手の考えと違うと思っても、聞き入れ、大きく抱擁する姿勢をとります。
相手のことを抱擁するという感覚は、モノを包む「包み紙」をイメージしてみると捉えやすくなります。小さい包み紙では、大きいものが包めず、大きい包み紙ならどんなサイズでも包めるように、大きい心で相手を“受容”していくようなイメージです。ですから、相手の話を聞き入れることなく、無理やり自分の主張を通すことによって、相手より優っているとの思いを持って得意になっているようでは、自分自身の器が小さいことをさらけ出しているようなもので、うまくいきません。
心を悩ませる心配を取り去る一つとして、“全てを無条件に受け入れる「受容」の行動”が大切な行動になります。つまり、自分勝手な行動や、気ままな思いを捨てて、周囲で現れる様々な問題を素直にそのまま受け取る生き方を積み重ねていくことが大切になるでしょう。
2)動き出す「発動」の行動について
心配性の人は何も行動しないうちから、クヨクヨ考え込むことが多くあります。どうにもならないことをアレコレ考えるよりも、気がついたことから次々と、自分の体を使ってどんどん行動していくことが大切です。
気がつくということは、自分がこれまで経験してきた実体験や学びから気がついたものが大半のように思われがちですが、それだけではありません。日常の中で見かけたモノや聞こえてきたモノから気がつくといったように、自分自身の力だけで気がついたわけではないことも多いのです。
つまり、形としては自分自身が「気づく」といえますが、実際には自分以外の人や環境といったモノから感じることもありますし、光や風といった自然から閃くこともあるでしょう。ともすると、自分で気づくというよりも、「気がつかされる」という表現の方が正しいのかもしれません。
では、この“気づかされる”タイミングはどのような時なのでしょうか。それは、気がついたことを行動に移す絶好のタイミングで訪れるといえます。
気がついたとしても行動に移すことなく延々と悩み続ける人もいますが、これでは行動のタイミングを逃してしまいます。さらに、考えれば考えるほど暗い心に支配されてしまうことが多いので、暗い結論や結果しかイメージすることができず、どんどん動けなくなります。
先のことを考えすぎてクヨクヨして、憂え心から動くことができなくなってしまうよりも前に、今やらなければならないことに全力を尽くして働きかけてみてはいかがでしょうか。
もし、どうしても暗いイメージに支配されてしまうようでしたら、その場所から一度離れて、身体を動かしてスッキリさせてみる方法が良好です。軽い柔軟体操や深呼吸を行なって、思考の方向性を変革させてみるのも方法のひとつです。
3、最後に 〜「心配」から「希望」の人生へ歩み出そう!〜
人はそれぞれの立場において心配や迷いがあるものです。家庭・職場・健康・経済・進学・受験・結婚問題等々、取り上げたらきりがありません。しかし、いくら心配して不安がっても、決して事情は好転してくれないものです。そこで、私たちの生活には“心”が先行していることを認識しておくことが大切です。
心を悩ませる憂えの「心配」が、自らの心を暗くし、暗い環境を産み出していきます。こうした“心配”は、私たちの生活にとって“毒”であり、なんの得にもなりません。身体に現れる現象としては、“胃”を悪くしたり、“心臓”に負担をかけたりと、高血圧の原因にもなることが精神医学の立場からもいわれていることでしょう。
心配することを全面的に否定するわけではありませんが、“心配”するのであれば、相手に“心を配る”という意味での心配に切り替えて行動してみてはいかがでしょう。“暗い心配”からは何も生まれませんが、“明るい心配”からは「希望」が生まれてくる可能性を秘めています。