何事に対しても「喜んで、進んで、楽しく」ことに臨めば、必ずその物事は成就すると、よく言われます。それは、間違いのない心理ともいえるでしょう。では、「喜んで、進んで、楽しく」行動するために、どのようなことに自分自身の持てる能力の全てを傾けたら良いのでしょうか。
このような疑問に相対することで私たちは、悩めば悩むほど深みに落ちてしまう内容かもしれません。しかし、意外なほど、活路は私たちの身近にあるのです。その内容を一部紹介しながら進めていきたいと思います。
はじめに
職場で働く人や、地域の人に言わせれば「言っていることはよくわかるが、どうしたら“喜んで、進んで、楽しい”心持ちになれるのか」という疑問が湧いてくるようです。もし、そのような質問を受けた時には「善悪を超えて、なんでもいいから“徹することだ”」と伝えたいと考えています。
というのも、私たちには善悪の判断ができません。なぜなら多くの人は、善悪と言いながら、ほとんどの場合に自分の損得や欲得で判断していると考えられるからです。つまり、自分の都合のいいものが善で、都合の悪いものは悪とみなしている傾向があるといえるのです。
一方で、宗教的な善悪や社会の伝統的な善悪といったものが私たちの生活を律しています。しかし、それは善悪のひとつの基準であって、それが本当に正しいかどうかはわかりません。何が正しくて、何が正しくないのか、などというのは時代や環境によって常に変動していると考えられるでしょう。
ですから、「善悪を超えて…」という言葉を添えて「物事に徹する」ことを進めているわけですが、どうしても多くの人が“与えられる”ことに慣れすぎて、自分から何かを産み出そうとする行動や、創造しようとする力が希薄になっていることは非常に危険なこととして認識しておかなくてはならないでしょう。
だからこそ、自分自身であらゆることに挑戦していくことが大切になるのです。今回は、そうした姿勢を掴む善い機会として、考えを深めてみてはいかがでしょう。
1、ひとつのことに徹する
何かひとつのことに徹するというと、とても長い年月を費やして打ち込むというように、時間的な長さを連想してしまいがちです。しかし、現代において“徹する”ということは、“量的”なものを追求するのではなく、“質的”なものを求めていると考えられます。
ですから、“徹する”ということについて量的世界と質的世界から問い始めなければなりません。言葉を変えていうと「今」という一瞬に、自分自身の持てる全てのエネルギーを完全燃焼させるということです。
1)自覚する
徹するにあたって自分がやろうとしていることが漠然としていたのでは、力を発揮することは出来ないものです。“徹する”ということは、正面からその物事に正対することであり、同時にそのものの持つ意義や、社会的必要性をより強く自覚することから生まれてくるものです。
そのため、ただただ与えられたものを消化するという消極的な生き方ではなく、やろうとしていることを明確にし、積極的な内容を持つことで自覚が深まってくるのです。
2)創造する
徹することは、自分自身の可能性への挑戦になると同時に、今まで自分の持つことのできなかった新しい価値観の創造へと繋がります。こうしたことは、常に自分自身の弱々しい部分と向き合い続ける大変さと、これまでに培われた既成の価値観を一度崩し、新しいものを生み出す作業となるために困難な状況も現れてくることでしょう。
苦しくて、辛くて、逃げ出したくなったとしてもかまいません。そんな思いを抱えつつでもいいので、自分自身と向き合い続けることが、これまでにない発見や大きい力をもたらしてくれる原動力となります。
また、今の時代こそ新しい価値体系を持った人が求められているとも捉えることができることでしょう。
3)共同する
徹し切るということは、自分自身の力のみでやり抜くといったイメージを持つことが多いように感じられますが、実のところそうではありません。
周囲の人々の能力、経験、知識というものを、自分がこれからやろうとしていることと、如何にうまく絡み合わせるかが大切なことになります。あらゆるものを組み合わせながら、自分が目指すべき方向性を見失うことなく、前進していきましょう。
2、身近な物事から始める
何か物事に徹することを考え始めると、これまで取り組んだことのない新しいことを思い浮かべたりするようですが、何か特別に新しいことを始めなくてもいいのです。何故ならば、私たちは日常の生活の中に“徹する”ことができるものがすでに存在しているからです。
身近な物事に目を向けて、注意深く観ることで取り組める事柄は数多く存在しているものです。ここからは、そうした日常の中でも、「清掃」について取り上げ、徹することで感じることができるその効果について考えてみましょう。
1)清掃とその効果
身の回りだけでなく、その周囲を含めて清掃することで、清浄な環境をつくることができます。継続的に清掃活動をするということは、行動する人の心を清め、体を浄化し、商売の流通を促進させ、家庭内の健康と明るさを保つ力が秘められています。
人を招き、交流するにも、環境を整えるために私たちは清掃をします。なかには仕方なく清掃を始める場面もありますが、続けていくうちに私たちの心の中には清らか気持ちが芽生え始め、綺麗に整えられていく様子を見ながら、心安らぐ感覚を得られることでしょう。
すると、理屈など考えずに清掃に徹する気持ちが自然と溢れてきます。この時こそ、物事に徹した時に感じる自分自身の心の状態が清浄化されたと捉えることができるでしょう。
2)雑念を払う
何かのことで、私たちは腹を立て、むしゃくしゃするなどという場面があります。また、分かっているけど、決断できない…、理解しているけど、踏み出せない…などという場合にも、イライラとしてしまうこともあるでしょう。
そのような時こそ、清掃に徹する時間を持つと良いのです。目の前の汚れを取り去るという動作から、心の中のモヤモヤを取り去り、不要な思い込みを綺麗に洗い流してくれるなどの効果が期待できます。
ともすると、清掃に徹するということと、私たちの心の状態は密接に関係をもっている相関関係にあるということが観えてくるのではないでしょうか。
特に、汗が流れるほど集中して行動した時に感じた爽快感や達成感は、汚れを取り去ると同時に、体の中から汗とともに不自然な私情雑念を洗い流したことになるために、スッキリとした心持ちで生活に入れると考えられるでしょう。
3)清掃と発展
東京都日本橋のある商店は、周辺の問屋の中では一番の売り上げを上げていることで有名な店舗です。その店舗では、早朝に店員が店の前はもちろん、問屋街の清掃に力を入れていることでも一目置かれています。
歴史を感じさせるその店舗は、新品同様の内装や外装ではありません。しかし、毎朝の清掃を通して綺麗に保つ努力を重ねることで、周辺で一番の発展を遂げることになったのでしょう。
現代では古い部分を切り捨てて、新しく作り上げていく考え方もありますが、少しずつでも磨き上げていくことで、清浄な環境が整い、店舗で働く店員に活力が生まれ、その時その場所に応じた発想と閃きを大切に、新しい発展の原動力となったのでしょう。
身近な“清掃”ではありますが、環境を整え、人を輝かし、新しいものを掴むきっかけは、やはり清掃に“徹した”からこそではないでしょうか。
また、清掃とは捨てることばかりではなく、場合によっては物を動かすことです。物を集めて、その物を然るべきところへ与えてく行動となります。つまり、捨てるように見える清掃も、“物事を集める力”と、“与えられる力”を清掃という行動によって、力を発揮していると同時に、養っていると考えることができるでしょう。
3、最後に
何が正しくて、何が正しくないのか、という悩みを抱え込んで、考え込んでしまうことは少なからず誰にでも起こることでしょう。では、そうした悩みはどこから生まれてくるのでしょうか。
ひとつ考えられることは、自分自身を取り巻く環境や時代の変化に、対応することが出来ない為に、困難な悩みが発生したと考えることができないでしょうか。
「善悪を超えて、なんでもいいから“徹することだ”」といった考え方は、周囲の環境や時代の環境に巻き込まれるのではなく、自分自身の状態を整えることを第一に考えて提案した内容になります。
「私たちは、多くの情報の中から最適なものを選択して、新しいことに挑戦していかなくてはならない」という言葉をよく耳にしますが、自分自身の意思で選択しているのでしょうか。もしかしたら、周囲の環境に選択を“させられている”状態にあるかもしれません。
もちろん、新しいことに意識を向けることも、行動していくことも重要な内容です。しかし、自分自身で選択していないのであれば、“与えられる”ことに慣れてしまい、自分から何かを産み出そうとする行動や、創造が希薄になる一方です。
今回、“徹する”ことに関する具体例として、「清掃」を取り上げたのは、清掃を通して、“与えられる”だけではなく、“集める力”を身につけることで、偏った考え方のバランスを修正することができるからです。
普段の生活の中で“清掃に徹する”ことを皮切りに、様々な物事に対して、汗が流れるくらい“徹して”みてはいかがでしょうか。継続することで、色々な物事を観る視野が広がるだけでなく、人間、家庭、会社、地域等の関係について、よりよい関係を深めるための気づきや、周囲の変化がよく観えるようになります。
さらに、何事に対しても「喜んで、進んで、楽しく」ことに臨むことのできる心が養われ、自分自身の持てる能力を全て傾けることに繋がっていくことでしょう。